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鮮やかな色彩と重厚かつ繊細な絵付けが最大の特徴である九谷焼。17世紀半ば頃、九谷の地で「古九谷」が生まれ、一時廃窯するも19世紀になると再び多くの窯で焼かれるようになり、それらは「再興九谷」と呼ばれるようになった。110余年の歴史を持つ錦山窯は、金彩技術に秀でた窯元である。日本海と白山の間に位置する豊かな地で、四代にわたって受け継がれる、その理念とは。

古九谷と再興九谷
江戸時代初期の1655(明暦元)年頃、加賀藩の分家である大聖寺藩の初代藩主・前田利治が後藤才次郎に有田で製陶技術を学ぶよう命じ、その後、九谷(現:石川県山中町九谷)で開窯。青(緑)、黄、赤、紫、紺青の五彩でほどこされた上絵付けが特徴で、その力強く濃厚な色彩は九谷焼の礎となった。しかし、1730(享保15)年頃に九谷の窯は突如廃窯。その理由は明らかになっていない。この期間に創出された磁器は、後に「古九谷」と称される。
九谷の窯が閉じられてから約80年後の1806(文化3)年、加賀藩の奨励により、京都から絵師で陶工の青木木米(もくべい)らが招かれ、九谷焼は再び蘇る。木米風の春日山窯、青手古九谷の再興をめざした吉田屋窯、赤絵細描の宮本屋窯、金襴手(きんらんで)の永楽窯など、個性豊かな窯が現れ、それらは「再興九谷」と呼ばれる。

錦山窯のあゆみ
上絵付けを専業とする錦山窯。初代・吉田庄作が、1906(明治39)年に小松市高堂(たかんど)町で独立を果たしたことにはじまる。庄作は金彩技法に秀で、錦絵風画法をなした。二代目の清一は、花鳥風月を取り入れた金彩細密画を得意とした。また、金が配給制となった戦時下において青手九谷を用いた作品を制作し、デザインの改良を行なった。三代目の美統(みのり)氏は、昭和30年代にデザインを学び、金彩を用いたモダンな作品を発表。人間国宝・加藤土師萌(はじめ)の遺作展において釉裏金彩の作品に感銘を受け、自身もその技術を高めた。2001(平成13)年には、紫綬褒章を受章。同年に国指定重要無形文化財の保持者に認定された。当代で四代目の幸央氏は、新たな彩色金襴手の表現を追求。九谷焼の普及にも尽力している。創業以来、四代にわたり、九谷の伝統を重んじながらも、その時代に応じた新たな試みを続けている。

金彩の名手、錦山窯の技法
ここでは錦山窯の作品を語る上で欠かせない2つの金彩技法を紹介する。
三代目の美統氏が追求する「釉裏金彩」は、器の表面に金箔や金粉などを用いて文様を表現する技法である。これによって、金を釉薬の中に閉じ込め、表面の金の磨耗を防ぐ上、深みのある独特の輝きが表現できる。釉裏金彩にはいくつもの複雑な工程が存在する。はじめに、素焼きした素地に色釉をかけ焼成し、器肌に図案をあて、墨で下描きを行う。次に、0.0005ミリと0.0003ミリの2種類の金箔を薄紙でつくった図案に合わせて切り取っていく。そして、番号に沿って金箔をピンセットで置き、貼り付ける。乾燥させたのち、金箔の上により細やかな装飾を加えていく。この装飾には金泥を用いる「金描き」と針を用いる「針彫り」がある。加飾が終わったら、上から透明釉をかけ、焼成すれば完成だ。

当代の幸央氏が得意とするのが「金襴手」である。金襴手とは、色絵陶磁器の上に金を定着させる装飾技法のこと。金泥で線を描く「金描き」、金粉を散らす「金振り」、金箔を貼りつける「金貼り」などが挙げられる。幸央氏が手がける金襴手の手順は、素地をつくり焼成することからはじまる。素地づくりと上絵付が分業される九谷焼だが、錦山窯の作品の一部は素地作りから行われる。次に器の表面に撥水剤をまだらに塗り、本焼きする。この工程を経ることによって、器肌に凹凸ができ、仕上がりに濃淡が生まれる。次に絵付けを行い焼成する。この工程は色ごとに繰り返され、幾重にも色を重ねていく。上から金箔片を太い筆を使って散らし、さらに細い筆を用いて金描きを行い、最後に焼成する。
豪華絢爛な九谷焼の真髄ともいえる上絵付け。職人たちの日々の鍛錬と試行錯誤によってその技術は受け継がれ、進化していく。
CRAFTS
01. Falling Flower ココア ボウル 中

02. MIROKU 松皮菱、立涌

03. MIROKU 八藤

04. Shugu 白盛唐草丸紋 平盃 中

05. Shuguシリーズ

06. Falling Flowerシリーズ

画像提供:錦山窯
参考文献:錦山窯(2015)『九谷 錦山窯の仕事』エクスナレッジ
Photography YUYA SHIMAHARA
Edit & Text YURIKO HORIE
こちらの情報は『CYAN ISSUE 026』に掲載されたものを再編集したものです。