ひと針ひと針趣向を凝らされた刺しゅう、気品を感じる真ちゅうの飾り、ユーモラスに揺れるフリンジ…。高橋彩子さんが営む「アッチコッチバッチ」は、「バッチ=束ねる」という名の通り、世界中の手しごとの技が効いた布や装飾を再編集し「バッチ」にして発表している。
新しい命を授かる前の素材たち

現在、発表は、主に店舗やギャラリーだ。展示のされ方も独特で、大抵は会場の壁にぎっしりと彼女のバッチが飾られることが多い。ひとつひとつがバッチという細かい「かたち」として存在しながらも、まとまるとひとつの大きな作品を見ているような気持ちになる。柄や模様はとても民族的なのに、不思議と、どのバッチにも独特で風通しのいいモダンな雰囲気が通底している。時には「ひょうきん」という言葉がぴったり来るような、クスクスとした表情さえ感じる、高橋さんのバッチたち。これらのバッチがどうやって生まれたのかを、彼女のアトリエで伺った。
素材ありきで独特の形が生まれる

高橋さんに「個人的なお気に入りのバッチを、ご自身ではどう付けていますか?」と聞くと、「自分では1個もバッチを持っていないし、付けないんです」と意外な答えが返ってきた。「よく出来たなと思う時があっても、作った途端興味がなくなるんです(笑)。もう自分のものではないというか、自分とは別の人のように感じて、歩きだしていく感じというか…。だから惜しい気持ちももちろんあるけれど、全然後ろは振り返らない。自分としては、素材をかたちに沿って切るときが一番楽しいです」と話す彼女。“サバサバしている” という言葉とはまた違った、ものづくりや制作物との独特な距離感のルーツは、たくさんの出会いや別れと、旅の記憶にあった。
「子どもの頃の憧れは、教育テレビで見ていたノッポさんでした。彼がひとつものを完成させると、その『もの』がいきいきとする舞台で実際に動いたりするでしょう?作った『もの』の背景にビルが建ったりして、世界が立ち現れる…。そんなことがしたいと思って、小さい頃は『ノッポさんになりたい』と思っていましたね。なので小さい頃から美術大学に行きたいと思って絵画教室に通ったりしていたんです。
でも高校時代に編集者になりたいと思うようになり、大学は社会学科へ進学しました。今思うと、それが良いきっかけになりました。大学に沢木耕太郎さんが講演にいらっしゃったことがきっかけで、バックパッカーになったんです。大学 1,2 年生の頃にタイへ行って、その時に現地の生地を買って持ち帰りました」。
“バッチは家族みたいなもの。 私の手を離れて、旅をする。そうして新しい循環が生まれる”
その後、大学を卒業し就職した出版社を2年ほどして離れることに。「思いがけず、無職になってしまったんですね。そうしたら、母に『家でじっとしているのは良くないから、外国へ行ってきたら?』と言われて。当時メキシコに興味があったので、メキシコに行くことにしたんです。現地で人形劇の教室をしている女性に出会って、『ここで何やってもいいわよ』って言われて、ミシンで縫い物をしたり、ものをつくることを教えてもらいました。すぐに発とうと思っていた街ですが、結局、3週間ぐらい滞在して…。ビザの更新をするために、日本に帰国して、母に話したら『いいじゃん!メキシコに住んじゃいなよ』って促されて、その後1年半ぐらいメキシコで彼女のお手伝いをしていました。とても楽しかったですね」。その後、帰国してふたたび会社員として働くも、「メキシコみたいに暮らしてものを作りたいけど、日本でどういう活動をしたらいいかわからなくて。ずっとモヤモヤしていたんです」。
毎日、触っていないとダメなんです

転機は、いつも背中を押してくれた母の死だった。「家の片付けをしていた時、昔から集めていた布が出てきました。すごい好きなものだったはずなのに、それを取っておいてくれた母の思いや、籠もっているつくり手の人の思いを直視できなくて…。その時ふと、ノッポさん的発想というか、『捨ててしまうぐらいなら、これを切ってみたらどうなるかな』と思ったんです。それで、切ってみたら停滞していたものが回っていくというか、死の匂いがぱっと開けるのを感じました。凄く気持ちいいと感じたんです。切ってみた布を組み合わせたらすごく面白い形が浮かび上がってきて、『これをブローチにしたら面白いな』と思ったんですね」。
大小問わず、すべて用途は「バッチ」

その後、母との思い出のある国立新美術館の「SOUVENIR FROM TOKYO」でバッチが取扱いに。「当時は、会社以外に自分の世界があるのが心の支えでした。まだ、バッチづくりは自己満足の場だったと思います」。それが生業となったいま、高橋さんが制作を続けるモチベーションは、“バッチを作ることで世界が拓けること” そのものだという。「パーツに施された誰かの息づかいや情を新しいかたちにすることで、沢山の心ある人やお店に繋がり、情が遠くへ飛んでいく。それだけでなく、バッチづくり自体が私にエールを送ってくれていると感じるようになりました。だから、バッチを私のところで抱え込んでしまってはダメなんです。旅をさせて、動いていかないと。要は、バッチは私にとっての “家族” なんですね」。
Photography YUYA SHIMAHARA
Edit & Text KAORU TATEISHI
こちらの情報は『CYAN ISSUE 022』に掲載されたものを再編集したものです。